豊臣秀吉系統の木下氏
この木下氏の系譜の発祥は諸説があり、浅井氏の分家とする説等があるものの、明確になっていない。
弥右衛門の子、藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)は、尾張大名織田信長に仕え活躍し、北近江長浜城主となった際に、姓を「木下」から「羽柴」へと変更し、秀吉に仕えていた異父弟の秀長もそれに追随した。その後、秀吉は功があったものへの恩賞として旧姓の木下姓を与えている。
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杉原系木下氏
この系統は、杉原氏(前述の浅井氏庶家で、浅井政貞と同族とされたり、桓武平氏系等々の各説あり)と同族である。秀吉の正室高台院の生家の姓で、彼女の兄は旧姓の杉原から木下家定と改称し、秀吉に木下姓を与えた人物という。後に家定は秀吉に仕え、播磨姫路城を与えられた。関ヶ原の合戦では妹高台院を警護した功により、家定は備中足守藩の初代藩主に任じられた。
家定死後に、長男の木下勝俊と次男の木下利房が足守藩の継承をめぐって争いを起こし、所領を没収された。だが次男の利房が1615年の大坂の陣で功をあげ、再び足守藩藩主に返り咲いた。その後幕末まで木下氏がこの地を統治した。
家定の三男、木下延俊は関ヶ原の合戦で西軍から東軍へ寝返った功により、豊後日出藩3万石を与えられた。こちらも幕末まで木下氏の統治が続いた。
これらの木下氏は江戸時代を通じて豊臣氏を本姓としている。
家定の五男、木下秀俊は秀吉の養子となり「羽柴秀俊」に、その後小早川隆景の養子となり、「小早川秀秋」と名乗り、小早川氏を継いだ。関ヶ原の合戦で西軍を裏切り、戦後岡山藩55万石を与えられるが、1602年謎の急死を遂げ小早川氏は断絶、無嗣改易となった。
龍造寺氏家臣 木下氏
龍造寺隆信家臣の木下昌直が有名。猛将として知られ、龍造寺四天王のうちの一人に数えられた。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで殿軍を務め戦死した。
系譜
秀吉系木下家
凡例
重政※
┃
国吉※
┣━━┓
昌高※ 吉高※
┃
竹阿弥━━北政所━━木下弥右衛門(昌吉※)
┃ ┣━━━━━━━━┓
秀長 日秀 秀吉
┣━━┳━━┓ ┣━━┳━━┓
秀次 秀勝 秀保 秀勝 鶴松 秀頼
※は中興武家諸系図、尾陽雑記等に見られる名前。
杉原系木下家
凡例 太線は実子、細線は養子、□は名不詳
足守木下家
家利
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定利 家次 義正
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家定 高台院 長生院 長房 長俊
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勝俊 利房 延俊 俊定 秀俊 秀規 宗連 紹淑 重長
┃ ┣━━┳━━┓ ┃ ┣━━┓ |
天祥院 利當 利古 利次 秀行 誉三郎 秀綱 重玄
┃
利貞
┣━━┳━━┓
公定 藤栄 利安
| ┃
利潔 利潔
┃
利忠
┃
利彪
┃
利徽
┝━━┓
利徳 利愛
|
利愛
┣━━┓
利恭 利永
| ┃
利玄 利玄
┣━━┳━━┓
□ □ 利福
日出木下家
延俊
┣━━┓
俊治 延由
┃
俊長
┣━━┳━━┓
俊量 公福 俊保
┣━━┳━━┳━━┓
俊在 俊監 俊能 俊泰
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俊保
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俊監
|
俊能
|
俊泰
|
俊胤
┃
俊懋
┣━━┓
俊良 俊敦
|
俊敦
┣━━┳━━┳━━┓
俊方 俊程 俊愿 元純
|
俊程
|
俊愿
足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市足守)に置いた。
豊臣秀吉の妻・北政所の兄・木下家定が、慶長6年(1601年)播磨国姫路藩(2万5千石)より転封し同じ石高の2万5千石で足守に陣屋を構え立藩。慶長13年(1608年)家定死去により幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609年)藩領を没収。
慶長15年(1610年)浅野長政の3男・長晟が2万4千石で入封。慶長18年(1613年)兄・幸長の死去に伴い紀伊国紀州藩(37万6千石)を相続し転出。天領となる。
元和元年(1615年)木下利房が大坂の陣の功績により2万5千石にて入封。以後、明治まで、木下家が12代・256年間在封した。
所領は備中国内の上房郡と賀陽郡より構成されていた。しかし、9代利徽の寛政11年(1799年)所領のうち約2万2千石が陸奥国伊達郡・信夫郡に移された。これにより決して豊かではなかった藩の財政は窮地に立たされた。これ以後、領地回復の嘆願が歴代藩主の主題となった。11代利愛の天保2年(1831年)嘆願の甲斐あってか、移転地の約半分が賀陽郡内に戻された。なお、領地が完全に備中国内に戻ったのは、明治維新後の明治3年(1870年)になってからである。
当藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵を輩出している。
明治4年(1871年)廃藩置県により足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入された。
なお、明治に入ると最後の藩主・利恭は子爵として華族に列せられた。彼の死後、養嗣子として歌人の木下利玄が家督を継いでいる。
歴代藩主
木下(きのした)家
外様 2万5千石 (1601年 - 1609年)
家定(いえさだ)〔従五位下、肥後守〕
勝俊(かつとし)〔従四位下、少将〕、利房(としふさ)〔従五位下、宮内少輔〕
浅野(あさの)家
外様 2万4千石 (1610年 - 1613年)
長晟(ながあきら)〔従五位下、但馬守〕
天領
(1613年 - 1614年)
木下(きのした)家
再封 2万5千石 (1615年 - 1871年)
2. 利房(としふさ)〔従五位下、宮内少輔〕
3. 利當(としまさ)〔従五位下、淡路守〕
4. 利貞(としさだ)〔従五位下、淡路守〕
5. 公定(きんさだ)〔従五位下、肥後守〕(きん)は正確には「八」の下に「白」
6. 利潔(としきよ)〔従五位下、美濃守〕
7. 利忠(としただ)〔従五位下、肥後守〕
8. 利彪(としとら)〔従五位下、淡路守〕
9. 利徽(としよし)〔官位官職不明〕
10.利徳(としのり)〔従五位下、肥後守〕
11.利愛(としちか)〔従五位下、肥後守〕
12.利恭(としゆき)〔従五位下、石見守〕
足守の観光
近水園(おみずえん):陣屋に隣接した大名庭園
足守文庫:藩主遺品・藩の資料の資料を収蔵・展示
木下利玄生家
家老・杉原家旧邸宅
商家・藤田千年治邸
緒方洪庵生誕地
大光寺(だいこうじ):木下家菩提寺