2009年07月02日

朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するために

前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。同時に鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。

江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年(元禄3年)に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年(寛延元年)に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。
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通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽であった[10]反面、通信使の往来路であると否とにかかわらず、武蔵・相模以西の東海道・畿内・西国の農民には労役の提供や費用の負担が求められ[11]、通信使の来朝は農民達にとっては臨時に重い負担を強いられるものでもあった[12]。そして、文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[13]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[14] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[15]といった乱暴狼藉を働くものもあった。警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大阪の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。

朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するために

前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。同時に鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。

江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年(元禄3年)に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年(寛延元年)に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。
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通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽であった[10]反面、通信使の往来路であると否とにかかわらず、武蔵・相模以西の東海道・畿内・西国の農民には労役の提供や費用の負担が求められ[11]、通信使の来朝は農民達にとっては臨時に重い負担を強いられるものでもあった[12]。そして、文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[13]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[14] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[15]といった乱暴狼藉を働くものもあった。警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大阪の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。

2009年06月13日

万有引力の法則との関係

アインシュタイン方程式は微分方程式として与えられているため局所的な理論ではあるが、ちょうど電磁気学における局所的なマクスウェル方程式から大域的なクーロンの法則を導くことができるように、アインシュタイン方程式は静的なニュートンの万有引力の法則を包含している。万有引力の法則との主な違いは次の3点である。

重力は瞬時に伝わるのではなく光と同じ速さで伝わる。
エネルギーから重力が発生する。
質量を持つ物体の加速運動により重力波が放射される。
ここで、3.は荷電粒子が加速運動することにより電磁波が放射されることと類似している。これは、万有引力の法則やクーロンの法則に、運動する対象の自己の重力や電荷の効果を取り入れていることに対応している。
特殊相対性理論が、“加速している場合や重力が加わった場合を含まない特殊な状態”における時空の性質を述べた法則であるのに対して、一般相対性理論は、“加速している場合や重力が加わった場合を含めた一般的な状態”における時空の性質を述べた法則であり、等速直線運動する慣性系のみしか扱えなかった特殊相対性理論を、加速度系も扱えるように拡張した理論であると言える。

対称性の視点からは、まず、特殊相対性理論は系のローレンツ変換に対する対称性により特徴づけられ、非相対論的極限によりニュートン力学の有するガリレイ変換が導かれる。一方、一般相対性理論は一般座標変換(diffeomorphism)に対する対称性により特徴づけられるアインシュタイン方程式を基礎方程式とする理論である。アインシュタイン方程式の有する一般座標変換に対する共変性は重力を小さくする極限のもとでローレンツ変換に対する共変性に帰し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する。当然、古典力学も包含している。

量子論は一般相対性理論と同様に物理学の基本的な理論の一つであると考えられている。しかし、一般相対性理論と量子論を整合させた理論(量子重力理論)はいまだに完成していない。現在、人類の知っているあらゆる物理法則は全て場の量子論と一般相対性理論という二つの理論から導くことができる。そのため、その二つを導くことのできる量子重力理論は万物の理論とも呼ばれている。
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量子重力理論は、高エネルギーでかつ時空が大きく曲がっている系を適切に記述できるため、場の量子論と一般相対性理論では適切に議論することのできない宇宙創世初期の状態についても予測できると考えられる。

量子重力理論の有力な候補としては、超弦理論がある。


2009年06月09日

感染症(かんせんしょう、Infectious disease)とは

感染症(かんせんしょう、Infectious disease)とは、寄生虫、細菌、真菌、ウイルス、異常プリオン等の病原体の感染によって、より高等な動植物に生じる病気の総称である。ただし、感染しても症状を呈さないものもあり、それを不顕性感染と呼ばれるが、後に症状が出るものもあり一連の流れとして感染症と称する。

感染症の歴史は生物の発生と共にあり、有史以前から近代までヒトの病気の大部分を占めてきた。医学の歴史は感染症の歴史に始まったと言っても過言ではない。1929年に初の抗生物質であるペニシリンが発明されるまで根本的な治療法はなく、伝染病は大きな災害と捉えられてきた。
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その後の微生物学・免疫学・薬理学・内科学・外科学・公衆衛生学の進歩を背景として感染症の診断・治療・予防を扱う感染症学が発展しつつある今日でも、世界全体に目を向けると感染症は未だに死因の約1/4を占める。特にマラリア・結核・AIDS・腸管感染症は発展途上国で大きな問題であり、感染症学のみならず保健学・開発学など集学的な対策が緊急の課題である。

先進国においては新興感染症・再興感染症に加えて、多剤耐性菌の蔓延やバイオテロの脅威が公衆衛生上の大きな課題として注目を集める一方、高度医療の発達に伴って手術後の患者や免疫抑制状態の患者における日和見感染が増加するなど、日常的にもまだまだ解決に向かっているとは言えない。

微生物学的には生体に微生物が侵入・定着した状態をいう。臨床医学的には微生物が侵入して定着し発症するまでの一連の過程をいう。ここで示される「感染症」の「感染」は後者の意味合いが強い。

日本では、感染症に対応するための法律として、従来の「伝染病予防法」、「性病予防法」および「エイズ予防法」が廃止・統合され、1999年4月1日から「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法)が施行されている。

感染症は多種多様な分類方法がある。

2009年04月25日

日本語

日本語(にほんご、にっぽんご)は、主として、日本で使用されてきた言語である。日本国は法令上、公用語を明記していないが、事実上の公用語となっており、学校教育の「国語」で教えられる。

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日本語が使えなければ、日本では日常生活にも大いに支障を来すため、日本手話を母語とする者、外国から帰化した者などを除いて、ほぼ全ての日本在住者は日本語を第一言語とする。使用者は、正確な統計こそ取られていないが、日本国内の人口、および海外に住む日本人や日系人を主として約1億3千万人と考えられる。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。
日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また共通語を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。古来の大和言葉では、原則として

「ら行」音が語頭に立たない(しりとり遊びで「ら行」で始まる言葉が見つけにくいのはこのため。「らく(楽)」「らっぱ」「りんご」などは大和言葉でない)
濁音が語頭に立たない(「抱(だ)く」「どれ」「ば(場)」「ばら(薔薇)」などは後世の変化)
同一語根内に母音が連続しない(「あお(青)」「かい(貝)」は古くは [awo], [kapi, ka?i]) などの特徴があった

文は、「主語・修飾語・述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろにつけ加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される

語彙は、古来の大和言葉のほか、中国から渡来した漢語がおびただしく、さらに近代以降には西洋語を中心とする外来語が増大している

待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物同士の微妙な関係を表現する

方言は、日本本土の東西および琉球地方で大きく異なる。さらに詳細に見れば、地方ごとに多様な方言的特色がある(「方言」の節参照)。様々な方言があるなか、明治以降の現代日本語では東京山の手の中流以上の方言(山の手言葉)を基盤に標準語(共通語)が形成されてきた

他の多くの言語と異なる点としては、まず、表記体系の複雑さが挙げられる。漢字(音読みおよび訓読みで用いられる)や平仮名、片仮名のほか、ラテン文字(ローマ字)ギリシャ文字(医学・科学用語に多用)など、常に3種類以上の文字を組み合わせて表記する言語は珍しい(「字種」の節参照)。朝鮮語(韓国語)も漢字、ハングル、ラテン文字を併用しているが、近年は漢字の使用が激減している。

音韻は「子音+母音」音節を基本とし、母音は5種類しかないなど、わかりやすい構造を持つ一方、直音と拗音の対立、「1音節2モーラ」の存在、無声化母音、語の組み立てにともなって移動する高さアクセントなどの特徴がある

2009年04月07日

賛美歌

賛美歌(さんびか)とは、キリスト教(特に西方教会)において、礼拝や集会等で歌われる、神をたたえる歌のことである。賛美歌の曲集に「聖歌」のタイトルが与えられている場合も少なくないが[1]、以下に説明する通り「聖歌」は「賛美歌」より多義的であり、指すものの範囲が広い。

賛美歌…会衆によって賛美される、民衆的な性格を持つもの、特にプロテスタントを中心として西方教会で用いられる宗教歌を指す。
聖歌…古代・中世から続く宗教歌、東方教会(正教会・東方諸教会)の奉神礼に用いられる歌、カトリック教会・聖公会等の典礼歌、(以上に挙げた狭義の)賛美歌が含まれる。
賛美歌の曲集に「聖歌」のタイトルが付けられている場合、「讃美歌」というタイトルの曲集と「聖歌」というタイトルの曲集に本質的な差異は無い場合もあり、編集の基準も同様となっていて同じ曲を採用している場合もある。
一般には賛美歌の文字を使うが、賛美歌集の書名には讃美歌の文字を使ったものが多い。元の用字は讚美歌で、讃は讚の略字である。

聖書の時代 [編集]
モーセが紅海を渡ったあとでエジプト軍が波に飲まれるのを見たとき、

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。(出エジプト記15:1a 聖書:新共同訳)
とあるのが聖書における最初の記事である。詩篇は「歌った」「歌う」と書いてあるので、これらはその時代の賛美歌の歌詞であると考えることができる。特に、「セラ」は間奏であると考える学者もいる。新約でも、最後の晩餐のあと

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マタイによる福音書26:30 聖書:新共同訳)
等の記事が見られる。

このように、歌を以て礼拝する伝統は聖書の時代からキリスト教教会に存在していた。ただし、狭義の賛美歌の歴史は中世末期頃に始まる。
日本の賛美歌(聖歌) [編集]
中田羽後師の編さん・翻訳による『聖歌』(日本福音連盟/いのちのことば社)として1958年から2001年まで発行されていたものと(日本福音連盟の聖歌編集委員会)日本基督教団の讃美歌委員会による「讃美歌」(1954年から、刊行中)がよく使われていた。両者ともほぼ共通の曲と近い翻訳の歌詞が特徴。現在は、その内容の大部分を引き継いだ、日本教会音楽研究会・和田健治の編著による「聖歌(総合版)」(聖歌の友社)、讃美歌改訂委員会による「讃美歌21」(日本基督教団出版局)と、「聖歌」でも「讃美歌」でもなく、日本福音連盟の新聖歌編集委員会により全く新しく編集された「新聖歌」(教文館)が刊行されている。

賛美歌の構成
番号 [編集]
ほとんどの讃美歌には題名が付いているものの、古い讃美歌や作者不明のものなど題名が判らないものも多く、歌を探しやすくするためもあり多くの讃美歌集には、歌ごとに番号が付けられており、題名が書かれてないものや最初の一句を題名の代わりに書いている讃美歌集も多い。

節 [編集]
歌詞の1番、2番……を賛美歌では節という。これは、1番、2番…というとその讃美歌ではなく讃美歌集の1番、2番…という意味になるからである。賛美歌はいくつかの節を持っているものがほとんどである。しかし、前半が毎節違う歌詞で、後半は全節同じ歌詞となっているものも多い。この後半部分を「折り返し」または「繰り返し」と呼ぶ。英語では refrain である。前半を独唱で歌い、後半を合唱で応答するという形式の名残であると考えられる。

ミーター(韻律) [編集]
ミーターは歌詞の音韻上の形式で、節のなかの音数(音節数)のことである。同じミーターの曲は、詞と曲とを入れ替えて歌うことができるため、欧米にはこれを利用した替え歌の習慣がある(日本語の詞の場合にはアクセントや音引きの関係で必ずしもうまく替え歌ができるとは限らない。そのせいか、日本では替え歌は一般的でない。また、日本の場合には近年になって訳詞されたものも多く、著作権法上の著作者人格権が消滅しておらず、替え歌には訳詞者本人の承諾も必要である)。

標準的なミーター:

SM (ショート・ミーター) 66 86
CM (コモン・ミーター) 86 86
LM (ロング・ミーター) 88 88

編成 [編集]
伝統的な賛美歌は、コラールの編成、すなわち、混声四部合唱の編成で書かれることが多い。実際の礼拝では、多くオルガンで伴奏される。

賛美歌の名前 [編集]
個々の賛美歌には名前が付いている場合が多い。しかし、賛美歌には替え歌の習慣があり、同じ詞に異なる曲が付いていたり、同じ曲に異なる詞が付いていることが多くある。また、同じ詞に違う訳が付いている場合がある。このため、次のように、歌詞や曲それぞれに名前を付けて呼び、区別している。また、讃美歌集の番号で呼ばれることも多くある。(特に礼拝では時間の短縮のため)

初行
歌詞は初行(最初の行)で呼ばれる。たとえば、「きよしこの夜」の原詞(ドイツ語)の初行は“Stille Nacht, heilige Nacht!”であり、英語詞は“Silent Night! Holy Night!”である。日本語詞は「きよしこの夜」である(ただし、JASRAC日本音楽著作権協会への登録(作品コード:044-0171-9)では、正題は「聖夜」である)。「いつくしみ深き」の初行は“What a friend we have in Jesus”である。また、初行以外のタイトルが付けられる場合がある。
チューンネーム
チューンとは曲のことであるから、曲の(歌詞でなくて音楽の方の)名前の意味である。日本の曲でもローマ字で付けられる。普通大文字を使い、「きよしこの夜」のチューンネームは“STILLE NACHT”である。「いつくしみ深き」のチューンネームは“CONVERSE”であるが、これは作曲者の名前からとったものである。なお、チューンネームを付けるのは、英語圏での習慣である。同じ曲でも、イギリスとアメリカでチューンネームが異なる場合もある。

アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

2009年03月23日

松浦鉄道

松浦鉄道株式会社(まつうらてつどう)は、長崎県・佐賀県で旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線西九州線を運営している長崎県・西肥自動車などが出資する第三セクター方式の鉄道会社である。沿線の住民などから、MRの愛称で親しまれている。

1987年(昭和62年)12月10日 設立。
1988年(昭和63年)4月1日 九州旅客鉄道(JR九州)松浦線を転換し西九州線開業。
2000年(平成12年)1月6日 レトロ列車「レトロン号」発車式。
2002年(平成14年)11月18日 たびら平戸口駅から佐世保駅経由でJR大村駅までお召し列車を運転(JR九州キハ185系使用)。

路線 [編集]
駅一覧等は以下の項目を参照のこと。

西九州線(全長93.8km・57駅)
沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開通するまでは日本で最西端を走る鉄道であり、途中のたびら平戸口駅が日本最西端の駅であった。なお、沖縄都市モノレール開業後も一般のレールを使用した鉄道としては日本最西端となっている。

佐世保中央駅と中佐世保駅間の距離は200mと路面電車やケーブルカーなどを除けば日本一短い。

なお、開業時から佐世保駅高架化工事による中断(2000年3月 - 2002年3月)を除いて一部列車が佐世保駅よりJR佐世保線早岐駅(1992年 - 2000年はハウステンボス駅)まで乗り入れていたが、2006年3月18日のダイヤ改正よりJRとの相互乗り入れを中止した。

JR九州との相互乗り入れについては、中止の理由が「松浦鉄道の車両の老朽化により故障が多発、安全が確保できない」となっている。これについて、松浦鉄道では開業当初の車両の置き換えを進めるとともに在来車の安全対策も強化することにより、たびら平戸口駅 - ハウステンボス駅間の直通乗り入れを再開したいとしてたが、2009年3月に乗り入れを再開することが決まった。なお、松浦鉄道は当初は朝夕の乗り入れ予定だったが、「ダイヤが込む朝夕は難しい」とするJR側との調整が付かず、結局、松浦鉄道側だけから1両編成で昼間にハウステンボス駅まで乗り入れる計画に変更されることになった。乗り入れ期間は3年間で、それ以降は利用実績を踏まえた結果次第で存続するか検討される。


車両 [編集]
2007年現在、下記の6形式26両が在籍している。MR-600形は日本車輌製造、ほかの車両は新潟鐵工所(現・新潟トランシス)により製造。開業時の新製車両18両には缶ジュースの自動販売機が設置されていたが、現在はすべて撤去されている。

車両のカラーリングは路線の多くが海沿いを走ることから、西海のブルーや九十九島の夕映えをあらわすオレンジ(自社コーポレートイメージカラーでもある)をあしらっているものが多い。同形式は同じカラーリングでまとめられている。

MR-100形(101 - 111・121 - 126) - 前面貫通型、セミクロスシート。外観はNDCシリーズの兄弟形式であるキハ120形と類似。
MR-400形(401) - 1998年に1両導入。全長18mとそれまでの車両より大型。前面貫通型、セミクロスシート。
MR-500形(501) - 愛称は「レトロン号」。1999年に財団法人日本宝くじ協会が寄付。前面貫通型、転換クロスシートで現在籍車唯一のトイレ装備車。カラオケ装置を搭載。
MR-600形(601 - 612) - 真岡鐵道モオカ14形ベースの新型車両。愛称は「肥前 WEST LINER」。1人掛け転換クロスシート・4人掛けボックスシート・ロングシートの3種類の座席を設けている。2007年3月ダイヤ改正後から21両を順次新製し、MR-100・200・300形24両を置き換える予定となっている。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

過去の車両 [編集]
いずれもMR-600形の増備に伴って全車両が運用を離脱した。

MR-200形(201 - 205) - 前面非貫通型、セミクロスシート。
MR-300形(301・302) - 前面非貫通型。当初はクロスシートだったがロングシートに改造された。カラオケ装置を搭載。唯一のオールロングシート車両だった。

2009年03月08日

清朝「三世の春」

康熙帝、雍正帝、乾隆帝の3人の皇帝の時代を三世の春と呼ぶ。この3人の時代に、皇帝はモンゴル、チベット、ウイグル等の民族にハーンとして君臨し、理藩院による間接統治をおこなう形態を採用する一方、李氏朝鮮やヴェトナム、ビルマ、タイなどの東南アジアの諸国には中国の伝統的な外交方針である冊封体制のもと、周辺諸国とのあいだで朝貢貿易がおこなわれ、緩やかに周辺を支配する形態を採用する形式が完全に確立した時代だった。そのため、ヨーロッパ諸国も中国の伝統的秩序のなかで貿易を行わざるを得なかった。上述のように茶、陶磁器などの物品はヨーロッパで人気のある商品だったため、ヨーロッパの商人は代価として銀を支払うという片貿易の状態が続いた。これは、対日貿易も同じで、明朝の時代よりアメリカ大陸や日本からの銀の輸入が続いたことにより、康熙帝は1711年、地丁銀制を採用した。

対内的に見ると、この時代は戦乱も落ち着いたことから人口が急激に増加した時代だった。康熙帝の頃の17世紀末の人口は約1億5000万人と推定されていたが、約100年後の18世紀後半には3億人を越えたと推定される。地丁銀制により人頭税(丁銀)が固定化したことも人口増加の一因として挙げられるが、この100年間の人口急増を支えたのが、新大陸よりもたらされたトウモロコシやサツマイモ、トウガラシといった農産物だった。農業の発展と貨幣経済の進展により商工業も発達し、新安商人、山西商人といった商業ネットワークも形成されていき、主要都市には、同郷者や同業者の集まる会館・公所がさかんに設立された。

1722年に即位した雍正帝は、朝4時から夜12時まで政務から離れず、便箋もホゴ紙を用い、食事も茶碗についた一粒の米を惜しんだほどの倹約家で、1732年に設置した政治の最高機関軍機処の建物もみすぼらしいバラックのような建物だったという。厳正な政治を心がけた彼は、1724年にはキリスト教の布教を禁止し、イエズス会宣教師をマカオに追放した。1727年には、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴルとシベリアのあいだの国境を画定した。

1735年に即位した乾隆帝の治世は60年の長きにわたった。乾隆帝の業績としてまず挙げられるのが「十全武功」である。ジュンガル、金川、グルカには2度の、回部、台湾、ビルマ、安南には1度の外征を行い、合わせて「十全武功」として自らを「十全老人」と呼んだ。これにより清の版図は最大規模に広がった。また、乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした[3]。乾隆53年(1788年)ヴェトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して朝貢国とした[3]。ほかに、ラオス、タイを服属させた。

康煕・雍正時代の経済的繁栄や宮廷の倹約もあって国庫は充実し、乾隆帝はたびたび減税を行った。10回の外征も、こうした豊かさを前提としていたが、彼自身は豪奢な南方巡幸を行ったり、ジュゼッペ・カスティリオーネに円明園を造らせるなど派手好みな傾向があった。外国貿易に関しては、1757年に貿易制限令を発して、外国貿易を広州1港に限定した(公行制)。なお、乾隆晩年の1793年にはイギリス使節ジョージ・マカートニーが渡来して通商を要求したが、それに対して乾隆帝は、「わが国は地大物博(地ひろく物産がゆたか)で貴国から買うものはない」といって、その要求をしりぞけた。これは、中国皇帝の傲慢さを示すことばだとして伝えられたが、当時としては事実でもあった。

ただし、18世紀代の約100年で人口が倍増したことは、民衆にとっては、新たな農地開墾に限界を生じさせることともなっていた。そのため、漢民族は移民が禁止されていた満州やモンゴル、ウイグルや台湾、雲南省、貴州省といった地域にも進出する一方、福建省や広東省の沿岸の住民は、東南アジアの諸地域に移住していった(華僑のはしり)。

日本では元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・茶・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田がひらかれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織がつくられ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。

人と物の流れが活発になるなかで、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地にうまれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」だったという評価がある。大石慎三郎は「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しくつくった都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」と述べている[4]。18世紀初頭の京都と大坂の人口はともに40万近く、さらに江戸は人口100万人前後に達しており、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている[5]。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに海外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向がみられるようになった。それに対応したのが新井白石の海舶互市新例(長崎新令)だった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものだった。清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限され、従来は輸入品だった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。

8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を行った(享保の改革)。吉宗が最も心をくだいたのは米価の安定だった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準だった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称されたゆえんである。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置その他の改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化やゆきすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。

なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年頃に吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史のなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちには幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想のうえでも新しい展開のみられた時代でもあった。

2009年02月19日

クロト・ブエル

クロト・ブエル(Clotho Buer)は、アニメ『機動戦士ガンダムSEED』に登場する架空の人物(声:結城比呂)。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

ブーステッドマン
生年月日:不明
星座:不明
年齢:17歳
身長:165cm
体重:52kg
髪色:朱
目色:青
趣味:ゲーム(待機中は携帯ゲーム機のシューティングゲームに没頭していた。)
地球連合軍のMSパイロット。オルガ・サブナック、シャニ・アンドラスと共にブーステッドマンの一人で、強化の度合いは"強化インプラントStage3"。家族構成は一切不明。個人データは軍の記録から抹消されている。 所属する部隊からはMSの生体CPUとして扱われている。

経歴
地球連合軍の後期GAT-XシリーズMS、レイダーに搭乗する。口数が多く喧嘩っ早いのでチームメートとの争いが絶えず、戦闘になるとオルガ、シャニ同様凶暴さを発揮し、物騒な単語を叫びながら破砕球「ミョルニル」を振り回す戦い方が目立った。戦闘中は「滅殺!」、「撃滅!」等の不穏な二字熟語をよく絶叫する。

第二次ヤキン・ドゥーエ攻防戦において、母艦であるドミニオンが撃沈し、帰還出来なくなってしまった状態で戦闘を続行した結果、γ-グリフェプタン(Gamma Glipheptin)欠乏による禁断症状のため錯乱状態となってしまう。

周囲を見境なく攻撃するレイダーの前に、プロヴィデンスとの交戦により行動不能に陥ったディアッカのバスターが現れ、猛攻を仕掛けるが、助けに入ったイザークのデュエルがバスターのライフルを手に取って迎撃。その一撃を受けて、クロトは錯乱した言葉を発しながらレイダーと共に四散し、戦死した。

余談
『スペシャルエディション完結編 鳴動の宇宙』では、彼は錯乱状態になっておらず、レイダーはプロヴィデンスと戦闘前のバスターに撃墜されている。
『DESTINY』では、ロドニアに存在する地球連合軍の秘密研究所のデータに彼の個人データらしきものも見受けられた事から、彼はここでブーステッドマンとしての調整を受けていたようである。
彼が愛用しているゲーム機の名は "Great Wonder Swan XXX" である。これは実在の携帯ゲーム機ワンダースワンの遠い未来のヴァーションと考えられるが、画面は現行のワンダースワンと比べてそれほど進歩した様子がない。 PlayStation2ソフト『機動戦士ガンダムSEED 終わらない明日へ』では、イザークおよびディアッカによっては倒されず、神経系が衰弱して死を迎える。
『SDガンダム GGENERATION DS』のアナザールートでは、ある条件を満たすことで他の2名共々アズラエルを見限ってプレイヤー部隊に加わる。その際、IDコマンドや修正効果も変更される。
彼の名字はソロモン72柱の悪魔ブエルに由来し、他の二人も同様にソロモン72柱に由来した名字を持つ。また、名前のClothoだが、モイライの一人にも「クロト(Clotho)」がいる。

搭乗機
GAT-X370 レイダー

2009年02月03日

木下氏(きのしたし)は、日本の氏族

豊臣秀吉系統の木下氏
この木下氏の系譜の発祥は諸説があり、浅井氏の分家とする説等があるものの、明確になっていない。

弥右衛門の子、藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)は、尾張大名織田信長に仕え活躍し、北近江長浜城主となった際に、姓を「木下」から「羽柴」へと変更し、秀吉に仕えていた異父弟の秀長もそれに追随した。その後、秀吉は功があったものへの恩賞として旧姓の木下姓を与えている。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

杉原系木下氏
この系統は、杉原氏(前述の浅井氏庶家で、浅井政貞と同族とされたり、桓武平氏系等々の各説あり)と同族である。秀吉の正室高台院の生家の姓で、彼女の兄は旧姓の杉原から木下家定と改称し、秀吉に木下姓を与えた人物という。後に家定は秀吉に仕え、播磨姫路城を与えられた。関ヶ原の合戦では妹高台院を警護した功により、家定は備中足守藩の初代藩主に任じられた。

家定死後に、長男の木下勝俊と次男の木下利房が足守藩の継承をめぐって争いを起こし、所領を没収された。だが次男の利房が1615年の大坂の陣で功をあげ、再び足守藩藩主に返り咲いた。その後幕末まで木下氏がこの地を統治した。

家定の三男、木下延俊は関ヶ原の合戦で西軍から東軍へ寝返った功により、豊後日出藩3万石を与えられた。こちらも幕末まで木下氏の統治が続いた。

これらの木下氏は江戸時代を通じて豊臣氏を本姓としている。

家定の五男、木下秀俊は秀吉の養子となり「羽柴秀俊」に、その後小早川隆景の養子となり、「小早川秀秋」と名乗り、小早川氏を継いだ。関ヶ原の合戦で西軍を裏切り、戦後岡山藩55万石を与えられるが、1602年謎の急死を遂げ小早川氏は断絶、無嗣改易となった。

龍造寺氏家臣 木下氏
龍造寺隆信家臣の木下昌直が有名。猛将として知られ、龍造寺四天王のうちの一人に数えられた。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで殿軍を務め戦死した。

系譜
秀吉系木下家
凡例 

               重政※
                 ┃
                国吉※
                 ┣━━┓
                昌高※ 吉高※
                 ┃
      竹阿弥━━北政所━━木下弥右衛門(昌吉※)
      ┃          ┣━━━━━━━━┓
      秀長         日秀       秀吉
                 ┣━━┳━━┓  ┣━━┳━━┓
                秀次 秀勝 秀保 秀勝 鶴松 秀頼
※は中興武家諸系図、尾陽雑記等に見られる名前。

杉原系木下家
凡例 太線は実子、細線は養子、□は名不詳
足守木下家
     家利
     ┝━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓
     定利                      家次 義正
     ┣━━━┳━━━┓               ┣━━┓
     家定  高台院 長生院              長房 長俊
     ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┃
     勝俊 利房 延俊 俊定 秀俊 秀規 宗連 紹淑 重長
     ┃  ┣━━┳━━┓  ┃     ┣━━┓  |
    天祥院 利當 利古 利次 秀行    誉三郎 秀綱 重玄
        ┃
        利貞
        ┣━━┳━━┓
        公定 藤栄 利安
        |  ┃
        利潔 利潔
        ┃
        利忠
        ┃
        利彪
        ┃
        利徽
        ┝━━┓
        利徳 利愛
        |
        利愛
        ┣━━┓
        利恭 利永
        |  ┃
        利玄 利玄
        ┣━━┳━━┓
         □   □  利福
日出木下家
 延俊
     ┣━━┓
     俊治 延由
     ┃
     俊長
     ┣━━┳━━┓
     俊量 公福 俊保
     ┣━━┳━━┳━━┓
     俊在 俊監 俊能 俊泰
     |
     俊保
     |
     俊監
     |
     俊能
     |
     俊泰
     |
     俊胤
     ┃
     俊懋
     ┣━━┓
     俊良 俊敦
     |
     俊敦
     ┣━━┳━━┳━━┓
     俊方 俊程 俊愿 元純
     |
     俊程
     |
     俊愿

足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市足守)に置いた。

豊臣秀吉の妻・北政所の兄・木下家定が、慶長6年(1601年)播磨国姫路藩(2万5千石)より転封し同じ石高の2万5千石で足守に陣屋を構え立藩。慶長13年(1608年)家定死去により幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609年)藩領を没収。

慶長15年(1610年)浅野長政の3男・長晟が2万4千石で入封。慶長18年(1613年)兄・幸長の死去に伴い紀伊国紀州藩(37万6千石)を相続し転出。天領となる。

元和元年(1615年)木下利房が大坂の陣の功績により2万5千石にて入封。以後、明治まで、木下家が12代・256年間在封した。

所領は備中国内の上房郡と賀陽郡より構成されていた。しかし、9代利徽の寛政11年(1799年)所領のうち約2万2千石が陸奥国伊達郡・信夫郡に移された。これにより決して豊かではなかった藩の財政は窮地に立たされた。これ以後、領地回復の嘆願が歴代藩主の主題となった。11代利愛の天保2年(1831年)嘆願の甲斐あってか、移転地の約半分が賀陽郡内に戻された。なお、領地が完全に備中国内に戻ったのは、明治維新後の明治3年(1870年)になってからである。

当藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵を輩出している。

明治4年(1871年)廃藩置県により足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入された。

なお、明治に入ると最後の藩主・利恭は子爵として華族に列せられた。彼の死後、養嗣子として歌人の木下利玄が家督を継いでいる。

歴代藩主

木下(きのした)家
外様 2万5千石 (1601年 - 1609年)

家定(いえさだ)〔従五位下、肥後守〕
勝俊(かつとし)〔従四位下、少将〕、利房(としふさ)〔従五位下、宮内少輔〕

浅野(あさの)家
外様 2万4千石 (1610年 - 1613年)

長晟(ながあきら)〔従五位下、但馬守〕

天領
(1613年 - 1614年)

木下(きのした)家
再封 2万5千石 (1615年 - 1871年)

2. 利房(としふさ)〔従五位下、宮内少輔〕
3. 利當(としまさ)〔従五位下、淡路守〕
4. 利貞(としさだ)〔従五位下、淡路守〕
5. 公定(きんさだ)〔従五位下、肥後守〕(きん)は正確には「八」の下に「白」
6. 利潔(としきよ)〔従五位下、美濃守〕
7. 利忠(としただ)〔従五位下、肥後守〕
8. 利彪(としとら)〔従五位下、淡路守〕
9. 利徽(としよし)〔官位官職不明〕
10.利徳(としのり)〔従五位下、肥後守〕
11.利愛(としちか)〔従五位下、肥後守〕
12.利恭(としゆき)〔従五位下、石見守〕

足守の観光
近水園(おみずえん):陣屋に隣接した大名庭園
足守文庫:藩主遺品・藩の資料の資料を収蔵・展示
木下利玄生家
家老・杉原家旧邸宅
商家・藤田千年治邸
緒方洪庵生誕地
大光寺(だいこうじ):木下家菩提寺